なかなか文章を書くのが下手なので、自分の思っていることを書き込むというところまでたどり着けないことが多いのですが、asahi.comに、大平一枝さんという方が“路地”についてのコラムを書かれていたのを目にしたのです。
僕の、日頃感じていることに近い気もするので、ちょっと紹介させていただきたくなってしまいました。
興味のある方は、ご一読を。
今の家の前面は路地になっていて、同じ学校に通う異年齢の子供たちが数人いるので、誰かの声がすると、我が家の子らは鉄砲玉のように家を飛び出していく。こちらに越してから、やけに土日の自分の読書量が増えたなと思ったら、子供たちが日がな一日外で遊んでいるので、手持ちぶさたになってしまったせいらしい。
今までは、上の子は同じマンションに同い年の子がいたのでどちらかの家で遊んでいたが、下の子は、遊び相手がいない。まだ小さいこともあり、土日は家族で買い物や公園に行くことが多かった。つまり、無意識のうちに子供中心、悪く言えば子供に振り回される休日でもあった(それが苦痛に感じることは一度もなかったが)。
ところが、子供が家の前の路地で遊ぶようになって、思いがけず自分の時間をもてるようになった。また、多少の泣き声や言い争いも放っておけるようにもなった。公園で遊ばせていた頃は、大人みんなが我が子に目を向けているから、少しでもトラブルがあると飛んでいって親が謝り合う、という不自然な光景がよくみられた。もちろん私も、「こんなのへんだな」とこころの中で思いつつ、謝っていたひとりである。
路地とは、子供の気配を感じながらも、子供の社会に子供を委ねられる貴重な空間だ。大人は介入しないが、なんとなくきこえる声や気配で、路地を囲む家々が路地で遊ぶ子「みんな」を静かに見守る。「みんな」というのがポイントで、けして「自分の子」だけを注視するのではない。「ガチャーン」と何かが割れる音がすれば、近所の大人が誰か出てきて、その場に合った対処をする。
そうやって子供は子供なりに社会性をつけていく。べったり大人と子供が一緒にいる休日は、ある意味ゆがんでいたのかもしれないと、ついこの間までの自分を振り返って思う。
それもこれも、子供が子供同士の裁量で仕切ることができる路地という遊び場を得たからこその発見である。
巨大な駐車場付きの大きなショッピングセンターに行って、ゲームコーナーで遊んだり、いろとりどりのアイスクリームを食べたりするのも一興。だが、子供が安心して遊べる路地の一つもあれば、そんなおぜんだてされたレジャーという名の消費をしないですむ。
いよいよ「子育てによい環境」という言葉の真意を、私たちは新たに定義しなおさなければならないときにきているような気がする。もはや、緑や公園や学校や病院や、セキュリティーの充実した住宅がそれではない。
深夜までへそピアスの若者でごったがえし、ライブハウスと居酒屋と芝居小屋が混じりあうおよそ「子育てに適した環境」からかけ離れたイメージの東京・下北沢に暮らしながら、私は日一日と、確信にも似た思いを強めている。共同性のある地域。横につながりあうことを歴史として持っている地域こそが、子を持つ親にとって大きな支えになる、と。
原文はこちら。
Asahi.com 小さな家の生活日記“暮らしのノイズ2”