~のである。

最近、ちょっと気にかかったことがあったのです。

中国で暇なとき日本でも読もうと思って、本棚にしまいこんであった本を何冊かもって行ったのです。
結局、ほとんど読むことはなかったのですが・・・。

でも、帰りの飛行機の中で「街並みの美学」という本を読みました。
僕が若かりしころに買った本で、当時どんな気持ちで読んで、どんな感想を持ったのかは覚えてないのですが・・・。
今読み返すと、いまもって感心するところもあり、反論したくなるところもありという感じなのですが、日本の街並みと世界の街並みが、比較分析されていて、入門書としては良い本なのではないかと思います。なにより、小難しい表記でなく、自然と読み進められるような感じで書かれていますので。(ただ僕は、数式みたいのが出てくると、とたんに読み飛ばしたくなってしまうのですけど・・・・。)

で、気にかかったことというのは、この本の内容ではなく、言い回しなのです。
この本、実に「~なのである。」とか「~しているのである。」とか「~できるのである。」とか言う言い回しが多いのです。
実は、僕もレポートとか書いてると、ついついそう書きたくなってくる(書いてしまう)のですが・・・。
でも、この「~のである。」って言い回しって、付けなければ、もっとさらっと読める文章になると感じたのです。というか、付けなくても文章が成り立ってしまう・・・。
そういうのが、良いこと、悪いことという感じで決め付ける気はさらさらないのですが、個人的にはつけずに読んでみた文章のほうが、良い感じに思えてしまったのでした。

それとも、この「~のである。」って言葉って、僕が思ってる以上に深い意味があるのでしょうか?

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