造園の論理

今月の建築学会の機関紙「建築雑誌」には、総合論文誌の第3号として「景観デザインのフロンティア」というのが同封されていた。
まだ、初めの方しか読んでないのだが、そのなかで国際日本文化研究センター教授の白幡洋三郎さんの論文に同感した。

白幡さんいわく、街並みの形成には「造園の論理」と「建築の論理」があるという。

「造園の論理」とは、変化する地形や、成長しては枯死する植物・樹木を相手にする造園には竣工がなく、庭は時間と共に変化し、とどまることなく移ろっていく。そして、あるときすばらしい状態に至り、その時点がいわば庭の頂点であり完成といえるそうだ。街もそれと同じプロセスを持っており、庭も街も同じように移ろい行くものとしてとらえられ、その変化・成長を助け、支え、見守ることが庭園計画であり、都市計画だったのではないかという。18世紀ヨーロッパの街づくりは、庭づくりと密接なつながりがあり、当時の都市計画理論家たちの言葉に「庭づくりを完璧に行える者は、街づくりも完璧に行える」という内容の言葉があるそうである。

一方「建築の論理」とは、あらかじめ完成の時点を頭に描き、それを図面に表現し、竣工の時点でその”絵”が完成されるように図る姿勢であり、竣工の時点が最高で、その後たとえ維持管理に十分こころしたとしても、ほとんどの場合、竣工時の輝きは衰えてゆく。
そして、現代の都市計画は移ろい行くものを助け、支え、見守るというかつての立場を、合理的ですっきりした”竣工”の理論「建築の理論」に傾斜させてきた感じがすると言っている。

なるほど、確かにその通りだと思った。
現在の建築を見ても、都市計画を見ても、完成を絵に描いて、それに対して事業を進めていくものである。
そして、それに対する弊害が、現在の街のさまざまなところに現れてきている。
僕自身、街というものは代々受け継がれ、その時々さまざまな変化をしていくものだと思っている。
それには、そこに住む人達の、自分の街に対する愛着とか、哲学みたいなものが不可欠であろう。
同じように、建築に関しても、完成時が頂点なのではなく、時間と共に移ろい、味わいを増していくような空間をつくっていくことも重要である。
僕のつくっていく空間も、そういう空間としていきたいと思っている。

この「景観デザインのフロンティア」最初の総論部分を読んだだけでも、興味深い論文ばかりであった。この先が楽しみである。
それにしても、徒歩と電車で移動するときは、有意義な時間利用ができると、今日改めて感じたのであった。

「造園の論理」への3件のフィードバック

  1. 昔の建物は、ここで言う「造園の論理」で出来ていたと思います。
    一つ一つの建物がそれで造られて、それらが集まった町並みも秩序立てて造られていました。
    住んでいくに従って輝きを増していくようなものが本来の建築だと思います。
    学生の頃、実は『小堀遠州』の研究をしていました。
    庭は常に手入れされることを前提に造られています。
    何年後、何十年後、何百年後の姿をイメージして造られています。
    枯山水なんかは時間は関係ないですが…。
    建物と庭の関係はマイ・ブログに今から書きます。

  2. KONさん。コメントありがとうございます。
    他の方の論文に書いてあったことですが、明治維新以降日本人の建築・街づくりに対する考え方が変化しはじめ、終戦・高度成長期以降、街並みを自分たちが作っていくという意識が急速になくなっていったといいます。
    全くその通りだと思います。
    これでは、僕らの国は、ただ雨露をしのぐだけの空間になってしまうのではないかと危惧します。
    時間と共に、変化し、成長していく空間に立ち返って行くことも重要だと思います。
    「建物と庭」の展開、楽しみにしています。
    うちの事務所も、基本的には外部空間・内部空間を融合させるという考えなので・・・

  3. ジグザクを続けて幾歳月

     中川 八潮市から 中川やしおフラワーパークから。中川の南岸、共和橋西詰近く。

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