農民摩天楼???

今日の朝日新聞の日曜版に、ちょっと面白い記事があったので・・・。
asahi.comからの拝借です。

中国の広東省開平市一帯では、農村に突如として”摩天楼”といわんばかりの建物群が林立する風景に遭遇することがあるそうです。
なんでも、野盗から財産を守るために、そのような建物をつくったのだとか・・・。
お金があるというのも、なかなか大変なのだと感じさせられてしまうものです。


記事原文はこちら。
リンク先には写真もあるので、興味のある方はどうぞ。

農村にそびえたつ「農民摩天楼」(中国) 藤森照信(建築史家)

5、6階建てのビルがたち、足下には水田が広がり、よく見ると里芋が植わり、蓮池もある。建物を見れば欧米だが、あたりに広がるのはまごうことなきアジア。それも日本とそう遠くないアジアの農村。
写真のビルのつくられた時代は、右手から、1920年代、20年代、30年。ニューヨークに摩天楼が建てられた時代とちょうど重なって、中国は華南の広東省開平市一帯の農村に、世にも珍しい“農民摩天楼”が林立したのである。これは自力里の例。
デャオ(石へんに周)楼と書いてデャオロウと読み、デャオはトーチカ、楼は高い建物をさすが、こんなものが昔からあったわけではなくて、そのほとんどは辛亥革命の1911年に建設が始まり、1920年代をピークにして、中華人民共和国の成立まで続いた。その数、にわかに信じがたいが実に3000棟。
存在が歴史家や民俗学者に知られたのは20年ほど前で、現在、清華大学から日本へ留学中の銭毅氏が、この建築についての初の学位論文を準備中。私は、銭さんにすすめられて出かけ、市の担当者の譚偉強氏の案内で見歩いた。
古くから水害がしょっちゅうあって、貧しい地域だったという。食いっぱぐれた農民には二つの道しかない。意欲とツテのある者は、太平洋を越えてアメリカへ出稼ぎに、無い者は野盗の群れへ。
出稼ぎは、肉体労働に始まるが、しだいに物売りへ、やがて店を持つ者まで現れる。しかし、いくら稼いでも、家族を呼び寄せることをアメリカ政府は許さない。年に一度ほど稼ぎのギッシリ詰まったトランクを携えて、妻と子の待つ故郷の村に帰るしかない。
“一脚三賊”なる言葉があって、成功した出稼ぎ農民が帰ってくると、その足跡を3人の野盗がつけてゆき、夜、襲う。
そこで、成功した出稼ぎ農民は、野盗対策に砦(とりで)のような家をつくって住んだ。日頃は下の階で暮らし、襲撃の報が見張りから入ると、鉄の扉を閉めて閉じこもり、最上階から応戦した。女性も銃の訓練をおこたらなかったという。
野盗で一番有名なのは“独眼鷹”で、100人の配下を従え、昼は山中にひそみ、夜、襲う。まるで“七人の侍”状態だったが、49年、中華人民共和国が成立し、人民解放軍との銃撃戦で、独眼鷹は死んだという。
出稼ぎ農民とその一族は、トウ小平の開放政策が始まると、ほとんどがアメリカやカナダに出てしまい、今は空き家となっている。
◆施主の体験と成功託す◆
開平市一帯の農民摩天楼を実現したひとたちには、高層建築の知識を持つ英国人建築家もいたようだが、過半は地元の建設業者がかかわっていた。
20世紀に入ると、中国では上海を中心に大規模なビルが出現しており、高層建築を支える技術は建築界に広まった。また、施主自身の米国でのコンクリート建築の見聞と体験も、多くの同種の建築を一時期に実現する原動力となった。彼らは自身の成功をそこに託した。
上階には、野盗の襲撃に応戦するための銃眼が設けられ、当時の中国の激動の世相をうかがわせる。
●開平市のこれらの建築群を総覧するウェブサイト(中国語、英語もあり、www.kaipingdiaolou.com)に、歴史や地域別の解説などが記され、写真も収められている。開平市の旅行ガイドの日本語サイト(kaihei.hitmans.com)もある。

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